CONCEPT

王様はその下着を履いている

THE EMPEROR PUT IT ON

アンデルセンの童話、はだかの王様は一体どんな下着を身に付けていたんでしょうか?お洒落が大好きな王様は下着にもこだわりがあったと私達は考えます。もし、現代にはだかの王様がいるとしたら一体どんな下着を集めるのでしょう。

ルカノールのコンセプト

「裸の王様」の王様はお洒落な王様とされています。そんな王様であれば当然アンダーウェアにもこだわりがあり、世界中のありとあらゆるアンダーウェアを見つけ出し、その中でも選りすぐりのアンダーウェアを集めていたのだと考えます。

私達もこの王様のように世界中にどんなアンダーウェアがあるのか探し出し、その中でも気に入った物をいろんな方と共有できたらと思いこのサイトを立ち上げました。なのでセレクトショップであり、すべての下着を取り扱ってはおりません。

ルカノールとは

「ルカノールという名前は、スペインの寓話作家ドン・ファン・マヌエル著の説話集「ルカノール伯爵」の タイトルでもあり、登場人物でもあるルカノール伯爵の名前を使用しています。
この説話集の中に「ある王といかさま機織り師たちに起こったこと」という物語があり、その物語はアンデルセンの童話集の中でも有名な「裸の王様」の元となった話です。

「裸の王様」の現代版として、再度その物語を私達で作り上げてみたい。そんな意味を込めてルカノールという名前にしました。

ルカノール伯爵について

この説話集は、全編51 話で構成されています。その中で、まずルカノール伯爵が相談役のパトロニオに人生の様々な悩みを相談します。それに対してパトロニオはたとえ話をして結論へと導き、ルカノール伯爵を納得させます。最後に著者であるドン・ファン・マヌエルがその物語の教訓をまとめている。といった流れになっています。

日本語訳ではドン・フアン・マヌエル(牛島信明, 上田博人訳)『ルカノール伯爵』国書刊行会(スペイン中世・黄金世紀文学選集3)として販売されています。

ドン・ファン・マヌエルについて

フアン・マヌエル(Don Juan Manuel, 1282年 – 1349年?)は、カスティーリャ王国の王アルフォンソ11世の摂政(1312年 – 1322年)。
アルフォンソ10世の弟マヌエル王子の子としてエスカローナで生まれる。早く父を失ったため、伯父アルフォンソ王の宮廷で育てられた。次代のサンチョ4世の寵遇を受け、12歳でムルシアの領主となった。ついで、フェルナンド4世の侍従をつとめた。

最初の妻イザベル(マヨルカ王ジャウメ2世の娘)とは2年で死別し、2度目の妻(アラゴン王ハイメ2世の娘)と結婚。彼女との間に一女コンスタンサ・マリアが生まれた。

1312年、フェルナンド王の死後、アルフォンソ11世が成人するまで摂政をつとめた。彼は王の2度目の王妃に長女コンスタンサ・マリアをと願い、議会も了承したが、王は外交上の理由から従妹のポルトガル王女マリアを選んだ。のち、コンスタンサ・マリアがポルトガル王太子ペドロの妃にと請われた時、王はその旅立ちを不服として妨げた。そのため王と不和となり、彼はこれに反旗を翻して義父アラゴン王の助けを得て、数年内乱が続いた。のちに、カスティーリャ統治を助けて欲しいと頭を下げた王と和解し、帰国。
3度目の妻、豪族ララ家の娘ブランカ・ヌネスと結婚。娘フアナ・マヌエルは、のちトラスタマラ朝の王エンリケ2世妃となった。
1340年、サルセードの戦に参加。1344年にはアルヘシラス占領に参加した。
詩人、寓話作家として著作があり、14種書いている。晩年、全作品の写本をペニャフィエルの修道院に保管させたが、現存するのは5種のみである。「ルカノール伯爵」という東洋風の寓話集には51話が収められ、この作品により、スペインの散文は一大飛躍を遂げた。

(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からの抜粋)

裸の王様について

ある国にお洒落な王様がいて、二人の詐欺師に騙される話。王様は見えもしない衣装を身にまといパレードに望むのだが、小さな子供の一人がこう叫ぶ。「王様は裸だよ!」

本来この物語は王様が恥をかいてしまう話なのですが、はたしてそ本当にそうだったのでしょうか?私達の考える現在版の裸の王様では、王様は馬鹿にされるはずがなく、むしろ人々に関心されたと考えます。そこにはアンダーウェアをこだわるという男の品格があり、お洒落な王様は、どんな時でもお洒落なのだから。

アンデルセンについて

1805年デンマーク、フュン島の都市オーデンセで産まれる。22歳の病気の靴屋の父と数歳年上の母親の家で産まれた。彼の家は貧しく一つの部屋で全員が眠った。
アンデルセンは、両親の愛と母親の盲信によって育てられ、若い頃から想像力を発揮した。1816年に靴職人の父親が亡くなると自分の進路を決めなければ成らなくなり、学校を中退する。彼はオペラ歌手になろうとし、1819年コペンハーゲンに行った。オペラ歌手に成ることには失敗し挫折する、その後も挫折を繰り返し、デンマーク王立バレエ団のバレエ学校にも在籍していた。その後デンマーク王や政治家のコリンの助力で教育を受けさせてもらえる事になり、大学にまで行くことが出来た。
1829年には『A Journey on Foot from Holmen’s Canal to the East Point of Amager』を発表している。その後、ヨーロッパを旅行し、1834年10月にはローマに行っている。
デンマークに戻ってきた1835年に最初の小説『即興詩人』を出版する。この作品は、発表当時かなりの反響を呼び、ヨーロッパ各国で翻訳出版されてアンデルセンの出世作となったが、現在は「結局はメロドラマ、安っぽいラブロマンスに過ぎない」と評価され[要出典]、鴎外訳を得た日本以外で顧みる者はほとんどいない。同年『童話集』を発表する。
その後も死ぬまでの間に多くのおとぎ話を発表しつづけた。アンデルセンの童話作品はグリム兄弟の様に民俗説話からの影響は少なく、創作童話が多い。また、初期の作品では主人公が死ぬ結末を迎える物も少なくなく、若き日のアンデルセンが死ぬ以外に幸せになる術を持たない貧困層への嘆きと、それに対して無関心を装い続ける格差社会の理不尽さを童話という媒体を通して訴え続けていた事が推察できる。が、この傾向は晩年になってようやくゆるめられていき、死以外にも幸せになる術がある事を作中に書き出していくようになっていく。
なお、コペンハーゲンには人魚姫の像とダンス博物館に王立バレエ団時代の資料が、彼の生まれ故郷オーデンセにはアンデルセンの子供時代の家(一般公開)とアンデルセン博物館がある。
大学を卒業できなかったアンデルセンは、旅を自分の学校として、多くの旅行記を書き残した。また、グリム兄弟、バルザック、ディケンズ、ヴィクトル・ユーゴーなど旅先で多くの作家や学者と交友を深めた。因みに、生涯独身(未婚)であった。
アンデルセンが70歳で亡くなった時は、デンマークの皇太子や各国の大使や子供からお年寄り、浮浪者に至るまで葬式に並ぶ騒ぎになるくらい世界中の人々に愛されていたにもかかわらず、彼の恋は常に失恋の連続だった。その要因として、容姿の醜さ、若い頃より孤独な人生を送ったため人付き合いが下手だったこと、他にもラブレター代わりに自分の生い立ちから、童話作家としてデビューした事、初恋に敗れた悲しさなどを綿々と綴られた自伝を送るという変な癖があったことを指摘する人もいる。この伝記は死後50年経った跡に発見された。それによれば、彼はこの伝記を、生涯に三度記したことが分かっている。
また、極度の心配性であったらしく、外出時は非常時に建物の窓からすぐに逃げ出せるように必ずロープを持ち歩いた。さらに、眠っている間に死んだと勘違いされて、埋葬されてしまった男の噂話を聞いて以来、眠るときは枕元に「死んでません」という書置きを残していた。

(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からの抜粋)

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